画家情報[高畠華宵]
愛媛県宇和島市生まれ。本名・幸吉。
13歳の年に上阪して、日本画家の門下生となるが、その後京都市美術工芸学校日本画科に学び、18歳の年には、関西美術院で洋画を学んだ。
上京して、更に日本画を学びながら彼が図案や広告などの仕事に携わるようになったのは、明治末であった。とくに「中将湯」の広告絵は、モダンでロマンチックな婦人画で注目を浴び、それから約4年後の大正4年、華宵は27歳の年で『少年倶楽部』に執筆を開始する。
そしてこれを機に、彼はその作風で絶大な人気を得て、その後約20年間にわたり、少年少女向け雑誌・大衆婦人向け雑誌など出版美術界に君臨し、一世を風靡したのであった。
高畠華宵は、線描によるリアリズムの挿絵画家であった。多くの雑誌が創刊され、数多くの挿絵画家を輩出した当時の出版界の中でも、流麗な線で描かれた美少年美少女は、透明感のある新鮮なタッチと妖艶な人物描写の混合する魅力的な挿絵として、人々をひきつけた。華宵のペン画による挿絵は終わりを告げようとしている木版ではなく新しい印刷である銅版や凸版にあった技法であり、また彼が描く、欧米風俗やニューファッションは新しい文化の情報源でもあった。
昭和10年以降、本格的に日本画に取り組み、その後絵本などにも描いた。晩年には、明石の愛老園で余生を過ごしたが、弥生美術館を設立する弁護士・鹿野琢見との出会いを経て上京。個展を開催するが、昭和41年脳血栓にて没する。享年78歳。
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弥生美術館 03(3812)0012